現代の音楽を形容する文脈において、“ポップ”という言葉はほとんどの場合“ポピュラー”の略である。“ポピュラー・ミュージック”は、一定の時間内に最大の快楽をもたらすための適度な長さ、反復を基調とする複雑すぎない曲展開、メロディーやリズムの大衆的な親しみやすさetc…といった特徴を備えているが、そもそも“ポップ(=pop)”という英単語には、“ポピュラー”の略語としての意味以前に、“突然はじける”というような意味がある。そして、その語義を確認するまでもなく、“pop”という音の、口唇破裂音+促音+口唇破裂音がもたらす軽い爆発感こそが、“ポップ”の本質を表している。
つまり、明瞭だったり親しみやすかったりするだけではなく(それもありつつ)、軽い爆発のショックを与えるものこそが、真の“ポップ”なのだ。“ポップ・ソング”はただの甘い砂糖水ではなく、炭酸の効いたサイダーのようなものでなければならない。実際のヒットチャートを見てみても、それ以前の流行と全く変わり映えのしないような、親しみやすいだけの曲ではなく、何かしら新しい衝撃を備えた曲こそが爆発的なセールスを果たす例は枚挙に暇がない。商業主義の只中において、「芸術は爆発だ」というテーゼの非常にミクロな現われをそこにみることができるのが“ポップ・ミュージック”なのだ。
最初のミックステープをAnticonからリリースしたため、以後もエクスペリメンタル・ヒップホップ・トリオという紹介をされることも多いヤング・ファーザーズだが、彼ら自身はその後のキャリアにおいて、あくまで自分達は“ポップ・ソング”を作ることを追究しているのだと度々語っている。キャリアのスタート時点で依拠したヒップ“ホップ”というフォーマットの名残をまだ残すこのデビュー・アルバムは、特定のジャンルに拠らない“ポップ・ミュージック”の追究という道程における、助走からの最初の飛躍=ホップである。
彼らにとってより本質的なのはカテゴリーやジャンルではなく、“相反するものの同居”という、結成当時から掲げるコンセプトの方だろう。彼らの方法は、アートにおけるダダイズムやシュルレアリスムにも連なる、既知のものを突如として未知のものに一変、あるいは既知のものの中に突如として未知のものを混在させ、感覚の変容をもたらす効果を音楽に転用したものだと言える。
完全に“unfamiliar=馴染みのないもの”ではないが、単に“familiar=馴染みのもの”でもない、言わば、“unheimlich=不気味なもの”として“ポップ・ソング”を再定義する音楽グループがヤング・ファーザーズであり、本作の白眉である“GET UP”の、不穏なシンセベース、壊れた機械のように反復するビープサウンド、ソウルフルな歌声、ドタドタとしたドラムとハンドクラップ、それらが奇妙に混在し、懐かしいような未知の感覚を呼び覚まし、高揚と鎮静の作用を同時にもたらすたびに、“ポップ”の汲みつくせぬ射程の中に、真の意味での“アバンギャルド”もまた含まれているのだと感じる。
フェイバリット・アーティストを一組だけ選べと求められたら、筆者の場合はカニエ・ウエストの名を挙げることになる。大げさでなく、彼の音楽は私たちの生きる文化の精髄のように聞こえる。我々の時代に完成した、我々の音楽として聞こえる。
好みの問題は別にしても、カニエをビートルズやマイケル・ジャクソンと並ぶポピュラー音楽史上の巨人と考えることはそれほど突飛なことではないように思える。レコードのセールスやストリーミングの再生回数、ライブの動員、他のミュージシャンへの影響や受賞した音楽賞、批評的評価などを指標にして、それをある程度客観的な事実として示すことも、あるいは可能かもしれない。そうした高度な定量的分析は他のメディアに任せるとしても、彼の作品には確かに、この音楽は長く残るだろう、と直感させるものがある。
カニエの音楽は文化の精髄として鳴る。これは例えば本作 The Life Of Pablo の #4 famous を一聴すれば直ちに了解できるだろう。ここにサンプルされているのはニーナ・シモン Do What You Gotta Do とシスター・ナンシー Bam Bam だ。カニエの屈託のない "大ネタ使い" はよく知られるところだが、結果として作られた音楽は常にそれに見合う歴史的な正統性を感じさせる。この曲も例外ではない。彼が新しい音楽を作り出すときには、その瞬間までに存在した過去の文化的な遺産を取り込んで凝縮し、新しいフォームで、現在の芸術として爆発させる。
カニエの作品についてもう一つ書いておきたいのは、それが純粋音楽とでもいうべき在り方をしているということだ。カニエの音楽は過去のレコードや新しいマシンのサウンドから出発して、思想や信仰、感情や風景を通過し、表現するが、結局はそれらを超えて音楽そのものを指向する。つまりそれは音楽から作られた、音楽のための音楽なのだ。
純粋に音楽的なものであるからこそ、カニエの作品は作家本人のパーソナリティの極端な偏りや、強烈なエゴと自意識、また政治的に厄介な数々の問題点にも似ず、あるいはより表層のレイヤーにある主題や、ときに下品で口汚いリリックにも妨げられずに、普遍性と中立性を獲得しえている。驚くべきことに、カニエ・ウエストは芸術的次元においては飽くまでハイパー・ニュートラルな存在なのだ。
The Life Of Pablo は、以上に述べた特質が最も良く、洗練された形で表出したアルバムであり、その観点から、カニエが他に作り出した幾つもの偉大な作品の存在にも拘わらず、彼の最高傑作と言っていい。
SZAを聴いていると、テイラー・ラッセルの演技を思い出す。黒人の父と白人の母の間に生まれたカナダ人であるラッセルは、『Waves』『Bones And All』という二つの映画で若き女性が引き摺る脆さと孤独のイメージを四次元の運動に代えてみせた。『Waves』では殺人を犯した兄を持つ高校生として、『Bones And All』では食人衝動を抱えるアウトサイダーの少女として、痩せぎすな身体で危うい場所に生きる姿を演じきった。
そんなラッセルの姿は、SZA の音楽が作り出す像と重なるところがある。「魅力的じゃなくてごめんなさい、しとやかじゃなくてごめんなさい(Drew Barrymore)」「あなたが大きなヒップの女の子と寝たいのはわかってる / 私が小さなヒップを気にしてるのわかるでしょ?(Garden(Say It Like Dat))」と、黒人女性に求められる性的な身体像に削ぐわない自身の劣等感を SZA は歌う。不安定な人間関係に生きる脆弱な心を「なぜ一人で満足できないの?(Supermodel)」「持っているのは壊れた時計だけ(Broken Clocks)」と叙情する。それは、R&B / ヒップホップの歴史が蓄えてきた強くセクシーな女性像(例えばジャネット・ジャクソン、マライヤ・キャリー、リル・キム、ミッシー・エリオット、ビヨンセ)とは一味違うスタイルだった。SZA とテイラー・ラッセルは共に、2010年代後半という時代を体現する、新しいタイプのアイコンとなった。SZA の新作『SOS』が二ヶ月にわたりビルボードチャートのトップに立ち続けたことは、彼女の存在が時代に選ばれたことを証明している。
『Waves』の中では SZA と共にフランク・オーシャンの曲が使用されるが、本作はフランク・オーシャンの影響を最も色濃く受けたアルバムの一つだろう。音数を抑えたループトラックとメジャーセブンスコードの多用が淡い寂しさを描き、ドレミファソラシドの音階では通常マイナーコードがくるところにメジャーコードを置くことで足場が消えるような浮遊感を演出する。『Channnel ORANGE』でオーシャンが示した手法を、SZA は『Ctrl』で素直に活用した。彼女はそこに多声のコーラスを重ねることで、天使に包まれるかのごとき心地よさと複数の心理が格闘する状況を同時に表現する。
アルバム最終曲の 20 Something では、BメジャーセブンスとEメジャーセブンスを往復するギターに乗せて、20代という年齢に恐れを抱く人の様を描いている。「なんで「前に進んだ」って言い張るの?「年を取った」と言う正直さに傷つくからだね」と自らの強がりに皮肉を加える冒頭のあとで、複数の声が連なる。「All Alone, still not a thing in my name / Ain’t got nothin’, runnnin’ from love, only know fear(ひとりぼっち、何も成し遂げていない / 何もわからず、愛から逃げて、恐怖だけ知っている)」という言葉に対して、「Ain’t got nothin’」は左右から、「runnin’ from love」は真ん中から声が聞こえ、「only know fear」で二つの声が重なる。そして、音程が上下するボイスと5度に固定されたコーラスによって「fear」が歌われる時、「恐怖」の一語は凛とした優しさと共に耳に伝わる。
「20代」は若さが発揮される特権的な時期だと喧伝されるが、実際に20代を生きる者にとってそれは救いようのない惨めさを伴う。特権を行使できていないという実感が、さらに惨めさを加速させる。SZA は、世に共有される空気と主体が抱える精神のズレを、淡い音の連なりで示した。ズレに対する敏感さと、言葉と音に対する繊細によって、彼女は強いアイコン性を伴うスタイルを提示しえたのだ。
GoldLink はワシントンD.C.出身のラッパー。
2014年の最初のミックステープ The God Complex が批評家に高く評価され、世に広く知られた。2015年に二枚目の And After That,
We Didn't Talk、2017年に三枚目のミックステープ At What Cost をリリースした。シングル Crew はグラミー賞にノミネートされた。
3作のミックステープを経て、デビュー・アルバムとなった本作 Diaspora は2019年6月にリリースされ、批評的にも商業的にも高い評価を得た。
タイトルの Diaspora "離散" は逆説的に "統合"
を示唆する。作家が試みているのは、散り散りになったブラックミュージックを、ひいては音楽文化の全体を一つの解釈 /
文脈において再び統合する接続点を作り出すことだ。
今やポピュラー音楽の細分化は神経症的にさえ見える。多様化そのものは歓迎されるが、現状はジャンルやシーン、地域による分断が顕著で、音楽はそれぞれの袋小路で窒息しかけている。こうした状況にあっては統合への欲求は自然なものだし、価値あることでもあろう。Diaspora
はこれまでにない、新鮮で創造的なクロスオーバーの一例であり、またリスナーたちに未知の音楽への新たな径路を開いている。
具体的には GoldLink
はラップ、R&B、アフロバッシュメント、レゲエ・フュージョン、ポップスを繋ぎ合わせ、LAとロンドンそしてナイジェリアの音楽シーンをDMV(ワシントンDC、メリーランド、ヴァージニア)的な品の良さで違和感なく纏めあげてみせた。こうしたことを可能にしたのはGoldLinkの天賦のポップネスの感覚であり、それは彼のスムーズなフロウにもよく表れている。
Spotify、Apple Music をはじめとするストリーミングサービスが商業音楽全般に波及する以前、Sound Cloud と Bandcamp がアンダーグラウンドの遊び場であり、アナログレコードやカセットテープでしか聴けない音楽がたくさんあったころの時空から、Yves Tumor は現れた。そして、今でもそこにいる。山のようなジャンク・ミュージックが眠る部屋で、残り物をさぐり続ける。その作業の歓びは子供の遊戯とも大人の趣味ともティーンエイジャーの享楽とも異なっていて、恋の胸躍る感じとも森や海に包まれる感覚とも異なる。社会の関係性によって成り立つ世界からはぐれて、かといって大自然のビオトープには入り込めない、隙間に存在するジャンクの精神。Yves Tumor のサンプリング・ミュージックには、「音楽」と「ゴミ」の区別を無意味にするジャンク精神があふれている。
2020年の『Heaven To A Tortured Mind』は、Yves Tumor が突如のロック化を示した作品として知られている。70年代のグラムロックやハードロックを彷彿とさせる、中音域の突き出たギター。そこにクラブミュージック/ヒップホップ経由の太いドラムとベースと変調されたサンプリングが重なる様は、トラップ隆盛以降のロック解釈としてあまりに現代的。グラムロックは60年代の狂騒に間に合わなかった世代の虚無的な批評表現であり、未来の見えない感覚を指し示すためにデヴィッド・ボウイやブライアン・フェリーはロックスターのパロディを演じていた。そのことを鑑みれば、感染病の流行直前に「月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、月曜、火曜、水曜、逃げられないよ(Folie Imposée)」と歌い、パロディによって未来のなさを演出した Yves Tumor の嗅覚に紛れはない。そして、サンプリングミュージックとグラムロックをスムースに接続できたのは、Yves Tumor がそもそも「ジャンク」の作家だからだ。ストリーミング(=小川)には流れないゴミの詰まりこそが、そのギラついた魅力の元素となっている。
それにしても、Gospel For A New Century のイントロの処理の見事さはどうだろう。ブリッジミュートしたギターの刻みに、ブーンバップを思わせるドラムパターン。サンプリング特有の高音のギラつきを残すシンセとサックスのワンフレーズを重ねてすべての音を一度ブツっと切り落とすことで、シンプルなリズムに粗野でセクシーな揺らぎを与えている。ドラムパターンは単体で聞くと機械的で味気ないのに、他の音と一緒になると荒々しいフィーリングに溢れる。死んだゴミから野生の充実が蘇る40秒程度のイントロだけでも、とりあえず聴いてほしい。
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DARKSIDE は、チリ出身のビートメイカー、ニコラス・ジャーと、ギタリストのデイブ・ハリントンによるプロジェクト。デビューアルバムの本作 Psychic
においては、ジャーの手になるダークで浮遊感のある IDM
にハリントンのブルースロック・ギターが重ね合わされ、ビートミュージックのスタイルは保持したままに、耳を惹く特異な音楽が実現されている。
ファンク、ディスコを下敷きとした電子音楽が、カッティング・ギターをそのサウンドに取り込むことは珍しくない。DARKSIDE が手がけたダフトパンク Random
Access Memories のリミックス版も、そうした手法で作られた傑作の一つだ。しかし Psychic
に鳴り響いているのは、エリック・クラプトンをも想起させるブルージーな「泣き」のギターであり、ここに本作の新味がある。
オープニングを飾る、11分超えの長尺曲 Golden Arrow
は、スローなエレクトロニカとして始まる。キックとスネア、ギターが重ねられ、更にその上でジャーのコーラスがループするときに生じるグルーヴは、聴く者を恍惚とさせる。リード曲でもある
Paper Trails では、潜伏するシンセサイザーを背後に、ハリントンによるギターとジャーのボーカルが官能的に絡み合う。The Only Shrine
I’ve Seen において緊迫するビートの上でパーカッションとコーラスが展開する様は秘教の儀式を思わせ、リスナーはそこに立ち会う眩惑的な興奮を知ることになる。
この作品を聴き通す経験には、アンダーグラウンドの暗闇の中を進んでいくような印象がある。虚無としての闇ではない。その闇は常に力強く、有機的に脈打っている。そして幾つかの瞬間には、快楽の激烈な光がそこに突如として降り注ぎ、私たちの網膜を焼く。
Run The Jewels(RTJ)は二人のヴェテラン・ラッパー、El-P とKiller Mike によるプロジェクト。2012年の Mike のアルバム R.A.P. Music での共演を契機に結成され、2013年のセルフタイトル・アルバム Run The Jewels で大きな成功を収めた。以後リリースされたRTJ2(2014)、RTJ3(2016)、RTJ4(2020)はいずれも批評家とリスナーから強力に支持され、二人のサイド・プロジェクトとして始まった RTJ は今では現在進行形の伝説としてラップ・シーンにその地位を占める。
El-P のサウンド・プロダクションは、かつて Company Flow のメンバーとして活動していた時代にはサンプリング・アートの探究そのものだったが、その後ソロから RTJ に至るキャリアのなかでシンセサイザーを駆使するEDM / ダンス的なものに変化してきた。El の手になるトラックは高密度で、速く、力強い。そして意外性と新鮮さがある。このダンス / インダストリアル的な新味あるトラックと、二人の MC の、ヒップホップの正統を感じさせるラップとの "組み合わせ" が RTJ のシグネチャーではあるのだが、たとえ楽曲からラップを全て取り除いたとしても、リスナーは決して退屈しないだろう。
MC としての El-P はラップの鬼、ヒップホップの精神性の権化ともいうべき存在である。シンプルで力強いフロウも、複雑でスキルフルなライムもお手のもの。Sci-Fi 文学の語彙をも取り込んだ政治的寓話は、ヒップホップ・マナーの露悪的な口汚なさに彩られつつも、飽くまで知的であり詩的だ。
もうひとりの MC、Killer Mike はいまやブラック・コミュニティの有力なスポークスマンの一人とも見なされている。Mike は旗色鮮明な左派であり、例えば街の床屋という象徴的な場所を舞台にしてバーニー・サンダースへのインタヴューを行い、また種々の事件や問題に接して "プロレタリアート" の利益を代表する立場から発言している。抽象化と比喩を駆使する El-P のラップと対比して、Mike のリリックはより具体的に政治を語る。
互いに強力な相棒を得た二人のヴェテランは、技術的な円熟を迎えつつ、スピリットにおいて初期の熱量を維持している。RTJ はラップ・ミュージックの伝統を知悉する者の手になる最新のアートであり、高速・高密度で力強く、知的に洗練されている。2022年現在までの4作品は全て名盤だが、まず1枚を選ぶなら 2nd だろうか。
ブラックミュージックを軸とした完成されたモダンポップスアルバムであり、偉大過ぎる姉をも凌駕した A Seat at The Table から3年。ソランジュは、グッゲンハイムで行ったアートパフォーマンスや、イケアとコラボレーション、Arthur Jafa(カニエの Ultralight Beam を用いた映像作品がメトロポリタン美術館等に展示されている映像作家)とのミュージックビデオの共作など...音楽を軸としながらも、文字通り360°に自らの世界観を表現してきた。それは映画で言うとディレクター、ドラマシリーズのショーランナーの様な立ち振る舞いだ。
彼女はリリース前に T Magazine のインタビューで本作を「核はジャズにあるの。だけど、エレクトロニックとヒップホップのベースとドラムも入っていて、(低音で)みんなのトランクを響かせたい」と表現した。帰郷を意味するアルバムタイトルだが、実際に、現在の拠点であるニューオリンズから、ジャマイカ、トパンガ・キャニオン、そしてヒューストンと移ろいながら制作されたと言う。抽象的で、メロディや彼女の歌よりも、音響に力点があり(1つのビートに18時間思考したというエピソードもあるが、巷で聞こえるアタックが強いだけのそれは一切に排除されており、とにかく気持ちがいい)、曲と曲の境目は不明瞭。NY のコレクティブ、Standing On The Corner がプロデュースした interlude も良い味を出している。
オープニング曲では ”I saw things I imagined” と歌うソランジュのボーカルがループする。彼女のサウンド、そして活動全体から、何をトランクにしまって、故郷に持ち帰るのか?それを、オーディエンスのイマジネーションに委ねた、ソランジュからの問いだ。
夏の終わりに感じる物悲しいけれど、同時に胸の空くような感覚は、もしかしたら人生の終わりに感じるそれに近いのかもしれない。郷愁的でありながら、自分が過ごした時間を祝福したくもなる。ホイットニーのセカンドアルバム Foever Turned Around は、正にそんな機微を、アルバム全体に落とし込んだような32分間だ。
Smith Westerns の元メンバーである、ジュリアン・アーリック(Vo. / Dr.)と、マックス・カケイセック(Gt.)の二人組は2016年に Light Upon The Lake でデビュー。カケイセックの小気味良いギターリフと、アーリックの暖かいボーカルが、柔らかい掛け合いを重ねることで、70’sソフトロックを、 たしかに10’年代らしい垢抜けたインディーロックに更新し、一躍シカゴインディシーンの騎手になった。シカゴ市長のロリ・ライトフットは、FTA のリリース日である2019年8月30日を、Whitney Day と宣言し、彼らの才能を市民と共有できる喜びを祝した。
このセカンドアルバムで、ホイットニーは新しく、特別なことはしていない。むしろ前作にあった様なシャープなリフやメロディは後退している様に思える。しかし二人の演奏に加え、ウィル・ミラーのサックスや、弦楽器も美しく調和し、バンドとしての成熟を感じさせる。だからこそ聴く者の生活に、ぼんやりと溶け込み、きっと歳を取ってからも、夏の終わりに繰り返し再生することになるのだろう。アルバムカバーでも描かれているような、変わらずそこにあり続ける平凡な草木や、特別ではない1日も、マジックアワーの夕日と、ホイットニーの演奏に照らされて黄金に輝く。
フィラデルフィアのラッパー Tierra Whack のデビュー・アルバム。本作 Whack World はリスナーたちに嬉しい驚きをもって迎えられ、いくつもの音楽メディアがこれを 2018 年指折りの傑作として紹介した。1 分間の楽曲が 15 曲、トータル 15 分で完結する端正な形式は、情報過多の世界に好ましく映る。楽曲たちは全体に静謐なトーンを帯び、短いが、それぞれに異なる印象的なフックを持つ。むしろフックだけがあると言ってもいいかもしれない。それらは親しみ易くも媚びがなく、カラフルで、機知に富んでいる。個性的な装飾品を整然と収めたジュエル・ボックスのような、心楽しい作品。
1990年代の中頃、オアシス初期のノエル・ギャラガーはまるで鼻歌でも歌うかのような軽やかさで、音楽史的な名曲を次から次へと作り出していた。オアシスのデビューアルバム Definitetly Maybe(1994)とセカンドアルバム Morning Glory(1995)は言うに及ばず、シングル・リリースのB面にいたるまで、発表する楽曲の全てが名曲だった。しかしそうした時代は永遠には続かない。サードアルバム Be Here Now(1997)以降、ノエルは作曲に苦悩することになる。2000年代にリリースされたオアシスの作品においては、ノエルの手になる楽曲は全収録曲の半数程度に留まった。
2009年、仲違いを繰り返していたノエルとリアム(ノエルの実弟でオアシスのシンガー)は遂に決別し、バンドは解散した。ノエルはジェファーソン・エアプレインの楽曲 High Flying Birds の名を冠したソロプロジェクトを開始するが、ソングライティングにおいてかつての輝きを持たず、リアムというヴォイスをも失った彼がいかなる音楽を世に問うのか、リスナーたちは期待と不安を抱きつつ新たな作品に耳を傾けることになった。
2011年に発表された本作は結果的に、聴衆をかなりの程度満足させた。骨太な旋律の威力のみで世界を制したオアシス初期の楽曲とは異なり、ここに収録された10曲は、旋律の魅力に加えて磨き上げるような丁寧なアレンジによって聴くべき価値のある水準に達している。
例えばリード曲の #4 Death Of You And Me には、ノエル初の試みとなるホーンセッションによるソロが組み込まれた。従来のアレンジであれば、ここには弦楽器によるソロが置かれたであろう。ホーン・ソロにはノエル自身の声をサンプルしたノイズが重ねられ、バンドが行進していく様を遠望するかのような情景を演出する。
次いで先行公開された #6 AKA.. What A Life! は、四つ打ちバスドラムの上に旋律を歌う、明らかに2011年当時の流行を受けた、ノエルにとっては挑戦的なアレンジの曲だ。サイケデリックな印象を与える楽曲後半のシンセサイザーアレンジは、オアシスの7thアルバム Dig Out Your Soul 収録の Falling Down を連想させる。ノエルのライティングはオアシス初期から確実に変化してきたし、それは本作に至って幾つもの点で最高度に洗練された。
#3 If I Had A Gun は、Wonderwall にも似たノエル得意のコード進行で作られたバラード。ノエルはオアシスの6枚目 Don’t Believe The Truth 収録の Let There Be Love においてバラードにシンセサイザーを用いる技法を獲得したように見えるが、本楽曲も、黄昏を感じさせる特徴的なシンセサイザー・アレンジが耳を惹く。
ラストトラックの #10 Stop The Clocks は、かつてオアシス時代にデモ音源がリークされており、ファンには知られた楽曲だった。本作におけるアレンジでは、崩れ落ちながら疾走するギターソロにドラムとコーラスが畳み掛ける、見事なアウトロが付加され、作品全体を締め括るに相応しい楽曲に仕上げられた。
本作 Noel Gallagher’s High Flying Birds は、かつてその背に翼を持つも同然の天才を誇った一人のミュージシャンが、時間を経て減じられたそれを技術と経験で補完しながら、今に至るまで遂に尽きることのなかった音楽への熱情をもって作り上げた快作だ。
2011年、最初のアルバム Section.80 をリリースして間もないケンドリックに、Snoop Dogg は言った。
“You got the torch and you better run with it. “
アルバム二作目の本作 good kid maad city でケンドリック・ラマーは、西海岸の王者たちから手渡された松明を手に、ラップ・シーンの最前線に走り出た。
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この作品には西海岸ギャングスタ・ラップを代表し、フッドに貢献しながら、ラップ・シーンの全体を牽引する者たらんとするケンドリックの意志が宿る。
ギャングスタということについていえば、ケンドリックの場合は彼自身のギャングとしてのエピソードを語るのではなく、無論タフな態度とワーディングは維持しつつつも、そして避け難く犯罪に巻き込まれながらも、本質的には飽くまで観察者として自らを取り巻くギャングスタの世界についてラップしていく。A short film by Kendrick Lamar と副題を添えられたこの作品は、歳若く聡い観察者(good kid)の目に映る、コンプトンというゲットー(mad city)の日常を活写するコンセプトアルバムだ。レコードジャケットに使われているのはケンドリックの幼少期、ダックワース家の実際の写真だが、テーブルの上にはミルクと共に酒瓶が並び、幼児を膝の上に抱く彼の叔父はギャングのハンドサインを示している。ケンドリックは狂った世界の good kid であり続けることに独創性の基礎を置き、ギャングスタ・ラップの新たな代表者となった。
更にラップ・シーンの全体を制するべく、チャートでの成功を強く意識して作られたであろう本作は、実際に2023年現在までのケンドリックのディスコグラフィーの中でも最もキャッチーでフックのある作品となっている。TDE のインハウス・プロデューサーである Sounwave らの手になるビートはスムースなものからマッチョなものまで様々だが、ケンドリックはそれら全てを完璧に乗りこなす圧倒的なスキルで聴く者を魅了する。またギャングと隣り合わせのフッドでの生活、その物語を立体的に表現するために、作家はフロウや声色をカラフルに使い分け、多声的で演劇的なストーリーテリングを実現した。聴衆を惹き込む語りの技術で、ハードな物語を優れて娯楽的なラップ・アルバムに仕立ててみせるのだ。
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good kid, maad city はリリースと同時に古典となった。ケンドリック・ラマーが天賦の才を備えた特別なラッパーであることは論をまたないが、本作の品質は何よりも作家の誠実な努力に依拠するものといえるだろう。かつてケンドリックの右腕に刻まれた Hustle Like You Broke(破産したかのように努力せよ)の文言は TDE のスピリットでもあり、ケンドリックの態度をよく表してもいる。
今作中で客演したラッパーの MC Eiht は、彼が過去に共演した多くのアーティストたちと比較しても、ケンドリックのスタジオワークの真摯かつハードであることは群を抜いていたと語る。
ケンドリック・ラマーは飽くまで good kid なのだ。コンプトンにおける黒人貧困層の生活の危険や苦悩は我々には共有しがたい。しかしタガの外れた世界でまともさ(decency)を堅持して生きようとする人間、苦悩と葛藤に苛まれながら、最後の一線のこちら側に留まることを選ぶ人間の在りようを描いたことにおいて、本作は普遍を獲得した。
リアーナになりたい。リアーナに会いたい。突き詰めれば私の人生の目標はこの二つに尽きる。
リアーナになりたいというのはつまり、トップスターの座に15年以上君臨しながら事業家として17億ドルの資産を持つビリオネアでもあるという尋常ではない立場にありながら、楽天的かつふてぶてしいヴァイブスを常に放ち続けるあの気風の良さを私自身も体現したいということである。リアーナに会いたいというのは、ただただ具体的にリアーナと逢って話がしたいということだ。それも一回きりの邂逅ではなく、友人かビジネスパートナーのように連続性のある関係を持った上でリアーナに会いたい。
先日のスーパーボウルハーフタイムショーをみんなは観ただろうか?妊娠しているという事実を開演前に公表せず、膨らんだお腹で余裕たっぷり歌い踊り微笑む全身レッドに身を包んだロビン・リアーナ・フェンティの姿を。最新作の『ANTI』を出してすでに7年が経過していることを忘れさせるような、あの新鮮な現役感に満ち溢れたリリの姿を。磨きに磨き上げられたステージングを思いつきでさらっと披露しているように見せる存在に、憧れずにはいられない。そんなヤバい奴が、日々どんなことを感じ、何を考えているかを、実際に話して感じたいではないか。リアーナへの気持ちが止まらなくてたまらない。どうやったらリアーナと対等な立場で会えるのか。私の野望の中で一番荒唐無稽に思えるのが、リアーナのようになって、リアーナの友人になることだ。野望は常に荒唐無稽な方がいい。
音楽家としてのリリの最大の武器は、そのヴォイスに尽きる。パワフルなのに力が抜けていて、可憐でありつつ邪悪でもある。あらゆる形容をすり抜けていく矛盾を飲み込んだ歌声が、とにかく素晴らしくてたまらない。本作『ANTI』で、その凄みは突き抜けている。SZA がプロデュースした冒頭の Consideration。濁ったハットとスネアの音に、粘り気を持ちつつ透き通るリリの声が、これ以上が想像できないほどの相性を示す。Kiss it Better のエモーショナルなギターフレーズに対しては、冷たくクールに声を響かせる。対照的に、Woo では硬いインダストリアル・ノイズと不穏な音階の上で、元カレへの未練を情緒的に歌う。サウンドのキャラクターの逆をいくように、リアーナは歌い方を変えている。声の成分を少しずつ調整している。その微妙な調整は意識的なテクニックというより、無意識な勘によるものに聞こえる。
さらに、『ANTI』ではリリの歌唱がリリックのストーリーとハーモニーを示す様も確かめられる。Needed Me では、恋愛感情・人間関係が終わっていく様子を「ユーウゥウ、ニーイィニーイィニーイィニーイィニーディッミー(You needed me)」とメロディを少しずつ下降させていくことで表現する。Love On The Brain では、愛に打ちのめされる歓びを三連のバラッドの乗せたファルセットで高らかに演じてみせる。
そして、大ヒットシングルとなった Work には、矛盾を飲み込んで平然と微笑むリアーナのクールさが端的に表れている。音数の少ないダンスホールレゲエに乗せて猥雑な「仕事」(もちろんセックスの隠語である)を表現するこの曲において、非整数時倍音のハスキーと整数時倍音の伸びやかさを両立させるリアーナの声がギラつく。この曲のリリックでは、歌の主体が性に対して受動的なのか能動的なのかが判別がつかない。客演の(実世界ではリアーナにずっとフラれ続けたらしい)ドレイクが演じる男も、女を翻弄しているのか翻弄させられているのかわからない。Work においては、主体と客体の消滅する感覚が、リアーナの声の二面性によって増幅される。曲調と歌唱はクールに抑えられ、それでいてサウンドはひたすら快楽的。まるでリアーナそのもののような楽曲である。
あぁ。聴けば聴くほど、リアーナになりたいとリアーナに会いたいの気持ちが脳に溜まっていく。マジで実現したい。マジで。
FKA twigs
ことターリア・バーネットは英国グロスタシャー出身のシンガーソングライター。スペイン系イギリス人の母親とジャマイカ人の父親を両親に持つ。幼少期には彼女がそこで唯一の黒人であったというカトリックスクールに通い、やがてダンスや音楽への関心を強めブリットスクール他で専門的な教育を受けた。2012年に最初のレコード
EP1 を発表。現在はロンドンを拠点に活動している。
デビューアルバムは2014年の LP1。スペイン人プロデューサー Arca
の影響も色濃い実験音楽的な電子トラックと、バーネットのよく訓練されたオペラティックなヴォーカルが、ポップソング的ともいえる旋律を軸に響き合う。幽玄で謎めいていながら、日常に接続するポップミュージックでもある
LP1 は、新鮮で魅力あるレコードとして批評的にも高く評価された。
本作 MAGDALENE
はアルバム第二作。猥雑な印象のビートミュージックと崇高さをも感じさせるヴォーカルを滑らかに接着させ、彼岸と此岸のあいだに第二の現実ともいうべき時空を現出させるかのような作風は前作同様だが、しかしその時空は、今回はより日常との接続を強めているように聴こえる。旋律のフックは明瞭、タンジブルな生音が重んじられ、FUTURE
ほか商業音楽のスターが登用されている。アルバムを締め括る cellophane
では、ドラムでも打ち込みでもなく、バーネットではない他者の声、スタッカートするバックヴォーカルがリズムを刻む。
アルバムタイトルは、聖女であり、罪深き女とも解釈されるマグダラのマリアを参照している。バーネットの音楽は芸術の聖性を具現するような在り様を維持しながらも、人間としての、また女性としての俗性へのコミットメントを深めていく過程にあるとみることはできないだろうか。
タイラー・ザ・クリエイターはラッパー / プロデューサーであり、アーティスト・コレクティブ Odd Future の創設者。自身の名義では2022年8月現在までに6枚のスタジオアルバムを発表している。芸術上のブレイクスルーとなったのは4枚目の Flower Boy(2017)だった。それ以前の3作でタイラーは既に新進気鋭の若いアーティストとしての高い評価を勝ち得ていたが、それらは飽くまでダークで攻撃的な、アンダーグラウンドを指向するものだった。前3作で怒りと苛立ち、反骨の気概、挑戦的な聴きづらさと冗長さを放出しきったかのように、Flower Boy ではタイラーの類稀な音楽的才能はポップネスへと向かい、作品は広い範囲の聴衆に届くことになった。
本作 IGOR は Flower Boy の方法を踏襲している。つまりアルバムは色彩豊かなサウンドで構築され、パーカッシブで高揚感があり、旋律と和音、コードの運びが尊重されている。前作と同様、ミックスの大胆なバランスやノイズといった「外し」の要素は初期の3作からは大きく後退しながらも残存し、アルバムがポップでありながらも内省的な芸術であることを示す標識のように機能している。ただし本作は更に良い。最新作 Call Me If You Get Lost(2021)も同じ路線の素晴らしい作品だが、現在のところ、IGOR がタイラーの最高傑作だと考えるリスナーは多いだろう。IGOR は Billboard 200 で1位を獲得し、第62回グラミー賞で最優秀ラップアルバムを受賞した。
本作の主題は失恋だ。詩的に切々とつづられる男性ふたり、女性ひとりの三角関係はシェイクスピアの十四行詩集を連想させる。苛立ちや暴力性で武装した初期の作品と比較すると、こうした個人的で繊細な主題は驚くほど無防備に感じられるが、それは作品が弱々しい印象を与えるということを意味しない。無防備な主題を扱うことを可能にしているのはむしろ、作品が持つポップネスの強固さだ。タイラーにおけるポピュラー・ミュージックの形式がより洗練され、成熟し、強度を高めたことで、アルバムは芸術的でありながら多くのリスナーが繰り返し聴き通したくなるものになった。IGOR においてリスナーは、作品の詩的な主題だけではなく、音楽という方法そのものに宿る希望を聞くことができる。
ハイムの3作目となる本作 wimpiii は、前2作のようなポジティブなソフト・ロックの一次元的なアルバムではなく、楽曲ごとに変化する表情を積み重ねながら進行していく。音楽性においてのみならず、頻繁にダークサイドを見せる感情においても、より繊細で多面的な作品となった。
アルバム制作の契機となったという #18 Summer Girl はルー・リードの Walk On The Wild Side を換骨奪胎したものだが、音数を減らし、アコースティック・ギターの出音を抑えたプロダクションでラフでありながら垢抜ける感覚を実現している。ハイムはここで、気取らない、しかし優れて洗練された wimpiii の基本的なタッチを獲得した。
ルー・リードの他に作品中で深い敬意をもって参照されるのは、彼女たちの創造性の基盤となった、ジャンルと時代を横断する伝説的なミュージシャンたちで、具体的にはフリートウッド・マック(#9 leaning on you)、ジョニ・ミッチェル(#11 man from the magazine)、アウトキャスト(#15 3am)などがある。
本作ではリリックにおいて、過去作では決して触れられなかった三姉妹それぞれのパーソナルな劣等感や鬱屈した思い、精神的な危機の経験が告白されており、注目に値するが、重要なのはそうした歌詞を運ぶサウンドが飽くまで陽性のものであり続けていることだ。ここには創作という営みの中に、また彼女たちのスタイルそれ自体の中に埋め込まれた、本来的な肯定性が顕れている。
ハイム三姉妹の音楽には、彼女たち自身のパーソナリティの発露としての魅力的な質感がある。それは地元 LA を闊歩するその姿を見かけるとき、インスタグラムの気の利いた投稿を目にするとき、あるいは三人揃って諧謔に満ちたダンスを踊る一方で、この上なく優雅にプラダを着こなすその在りようを思うときに、私たちが触知する質感だ。
テイラー・スウィフトは稀代のメロディ・メイカーであり、言語の音楽性を知悉するリリシストでもある。初めからそこに存在していたかのような、飽くまで自然なフックのある旋律に、喉の奥で母音を鳴らし、舌と唇で子音をかたちづくる快楽が重なる。ここにはポピュラー音楽の原初的な喜びがあり、彼女は確かにそこに触れている。
スウィフトはまた、小説家のようでもある。これはキャリアの初めからずっとそうだった。彼女は部屋のドアを閉じて、曲に登場する人物たちの声に耳を澄ませる。自らの経験と詩的な想像をマテリアルとして、普遍的な物語を立ち上げていく。
今となってはこのミュージシャンのソングライティング能力に疑義を呈するリスナーは少ないだろう。しかし以前にはそうではなかった。というより、スウィフトはデビュー以来随分と長い間、当初からの商業的成功とは裏腹に、批評的・芸術的には過小に評価されてきた作家だと言ってよい。
卓越した存在は得てして不当に低く見積られるものだ。人々は巨大な才能を矮小化して既知のカテゴリに収納し、認知的不協和から身を守ろうとする。スウィフトはごく若い時点で既に強靭な作曲能力とシンガーとしての魅力を示していたが、世間は彼女を当初には微笑ましいカントリー娘と考え、後にはティーンエイジャーのための無害なポップスターと見なして高を括っていた。
楽しげにチャートを賑わすテイラー・スウィフトが、同時に強力な芸術家でもあるという考えは簡単には受け入れがたい。幾つもの傑作リリースが重ねられていくなかで、その評価は否応なく、確実に変化していったのだが、それでも彼女は長い間多くの人々にとって "実在するには素晴らし過ぎる" ミュージシャンだった。
本作 folklore(2020)はスウィフトの8枚目のスタジオ・アルバム。カントリー及びポップの領域で華々しい商業的成功を収めた作家は、この作品ではインディー・ミュージックをいわば "オマージュ" してみせた。
ここにあるのははしなやかで強いメロディーと、自然体で表情豊かなヴォーカル、思慮深いリリック、そしてシンプルなアレンジだ。過去の優れた作品を正当な批評的眼差しから隠してきたポップ・ミュージックのパッケージは退けられ、ここではスウィフトの生の才能が、寓意的な森のなかに静かに置かれている。
つまりこのアルバムはいわば批評的に "評価のしやすい" 作品であり、ある意味では作家の親切心でさえあるのだ。folklore は一部に残っていたスウィフトへの軽視を覆し、本物のシンガー・ソングライターとしての彼女の名声を決定的なものにした。
ラナ・デル・レイの5枚目のスタジオアルバムは、彼女自身が憧憬を抱いてきた古き良き理想郷としてのアメリカと、眼前に広がる現実の祖国との乖離、その憂鬱、それでもなお確かに宣言される肯定性を、切実でリアルな歌詞と70年代西海岸を参照したサウンドで表現する。
2011年のシングル Video Games でのデビュー以来、デル・レイは時代錯誤的な音作りや、謎めいた雰囲気、退廃的とも見える思想の表明(ex. The Crystals におけるアンチ・フェミニズム)によって自らをエキセントリックな異端児として演出してきた。作品の音楽的な品質は高く、とりわけ60'sアメリカーナと The Weeknd や A$AP Rocky など現行シーンのポップ&ラップを見事にミックスした4thアルバム Lust For Life は特筆に値するが、彼女のアーティストとしてのスタイルには常に、マーケットの反応を過剰に意識した、偽造された奇妙さの印象が付き纏った。
しかし本作においてデル・レイはそうした衒いから脱却した。音楽的な実験や前衛性は抑制され、作家が敬愛するジョニ・ミッチェルやイーグルスらの西海岸ロックが蘇生される。Norman Fucking Rockwell は甘美な旋律を豊かに含む、ソフトロックアルバムとして仕上げられた。
リード曲 The greatest の古典的な楽曲構成と力強いコーラスは、作家自身による、自らが本物の音楽家であることの宣言のように思える。地に足のついたワーディングの歌詞は全編を通して憂鬱を歌うが、ラストトラックの hope is a dangerous thing for a woman like me to have – but i have it のアウトロでは、それでも私は希望を持つ、というラインが4度繰り返され、67分間のアルバムは、その静かな確言と共に幕を下ろす。
2010年代はポップミュージックの実り多き時代だった。この小さな本はその事実のために作られたのでもあるが、中でも2016年はその2010年代の1つのピークとなる年だったと言っていい。そしてソランジュやカニエ、フランク・オーシャンらのアルバムと並んで2016年を特別なものにしているのが、チャンス・ザ・ラッパー
Coloring Book だ。
チャンスはこの年の2月に発表されたカニエ・ウエスト The Life Of Pablo の堂々たるオープニング Ultralight Beam
で、詩的でスキルフルなラップをたっぷりと披露したが、それはカニエのアルバムの冒頭を見事に飾ったのみならず、その後にリリースを控えた Coloring Book
の美しい広告ともなった。カニエとチャンスは同郷シカゴの出身で、信仰を共にし、音楽的にはいわば師弟関係にある。
満を持して発表されたレコードは、神と音楽への賛美を基調とし、明瞭で色彩に満ちて、ドラッグによるのでない、人生そのものによる陶酔を思い起こさせる傑作となった。
チャンス自身も参加する Donny Trumpet & The Social Experiment
の全面的な貢献によって作られた本作には、ジャズ、ソウルの音楽性が横溢する。また全編に渡ってゴスペルの和声が鳴り響く有り様は、リリックの宗教性とも相まってラップ・アレンジを通過した教会音楽と言っても通るぐらいだ。
しかし本作がいかに宗教的な真剣さと説得力を備えているといっても、無論それはこの音楽を楽しめるのが信心深いキリスト者だけだということを意味しない。チャンスはラップ・ミュージックの伝統的なマナーを体得しており、また2
Chainz、Lil Wayne、Young
Thug、Futureといった資本主義ないし物質主義の体現者をゲストに迎えて、このレコードを巧みに地上に繋ぎ止めている。
数多あるチャンス・ザ・ラッパーの音楽の美点にも拘らず、その最大のものは彼のラップ・シンガーとしての強靭な実力だということは強調されていいだろう。聖書や説教から採られ、深く内面化されていることの見てとれる語彙やフレーズは、ストリートに接地しながらも崇高さと詩性を感じさせる。おどけた
"崩し" を漂わせる独特の声とフロウ、"Igh"
と綴られる雄叫びが彼の刻印だが、必要なときには滑らかに軽快に言葉を運び、巧みな言葉遊びやライミングで耳を楽しませてくれる。Coloring Book
を再生すれば、チャンスの優れて魅力的なラップを、最良の形で聴くことができる。
「本はカバーで判断しちゃダメ。そして自分らしさを大切にするんだよ。」オークランド出身のSSWケラーニ・パリッシュは、デビュー・ミックステープがリリースされる2014年、コンプレックスのインタビューで、リスナーにメッセージを発信した。同紙によると、彼女は、全身至るところにタトゥーがあり、ホームレスも経験したというタフなルックスは、一見自信家に見えるが、初めは不安で仕方がなかった様だ。しかし、レコーディング・スタジオに入った瞬間に、自分の才能に対して意識的に自信を持つようになったという。
本作リリースの14年といえば、前年のビヨンセの傑作や、インディーシーンにおいても Chill Wave の勃興など、クールでインテリジェント R&B が流行していた。そんな中で、ケラーニは恥ずかし気もなく、それはある種の野暮ったさも含んだ形で、自信が憧れてきた90年代の古典的な R&B を思い切りサンプリングし(メアリー J ブライジや、ジャネット・ジャクソンら)、恋に落ちることをテーマに、強すぎるスネアが耳に引っかかる様な粗削りなプロダクションで、疾走感ある一枚を完成させた。それは土臭くも、彼女の気概が乗り移った力強いサウンドで、登校前のティーンエイジャーを勇気づける。
奇妙なアルバムだ。何が奇妙かって、この『After Hours』というアルバムには Daft Punk が参加していない。低音寄りのぶ厚いシンセ。マイナースケールでプログラムされた16分刻みのシーケンサー。存在感を強く放ちながら誰の邪魔もしないキックドラム。どの音を取ってもそこに Daft Punk の影がちらつくにもかかわらず、本作のクレジットに彼らの名はない。
Daft Punk が参加しているのは前作『Star Boy』においてだ。そのコラボレーションは、キャリアの停滞期を迎えていた The Weeknd のスタイルに明確な変化をもたらした。オルタナティブ R&B と呼ばれる、インディの陰りやナードの捻じれを持ち込んだリズムアンドブルースの先駆者であった The Weeknd ことエイベル・テスファイは、気づいたらジャストなリズムで80’sライクなサウンドを奏でるポップスターに変貌を遂げていた。その変化には、明らかに Daft Punk からの薫陶がある。ヒップホップのビートの圧をハウスのリズムパターンに持ち込んだクラブサウンドで名をあげながら、2001年の『Discovery』以降(ロボットになって以降)、メロディアスなコード感を持ったレトロフューチャーポップに接近した Daft Punk。彼らの作品の中で The Weeknd に最も近しいのは、全アルバム中最も無視されていると言って過言ではない『TRON: Legacy』のサウンドトラックだろう。きらびやかで豪華であると同時に空疎なそのサウンドは、The Weeknd のペルソナそのものを思わせる。コンピューターゲームの中を描く『TRON: Legacy』のように人工的な世界で、満たされない欲望に飲み込まれ続ける囚人としてのペルソナを。
『TRON』のオリジナル版は1982年に公開されており、コンピューター・グラフィックスが初めて大々的に導入された映画として広く知られている。その80年代のスタイルを、2010年代の技術で更新せんとした続編が『TRON: Legacy』である。『After Hours』にも、80年代のサウンドを思い切り金をかけた最新機器で武装したかのような趣がある。誰もが A-ha "Take On Me" を想起した Blinding Lights のシンセの音も、Sacred To Live のド派手にゲートリヴァーヴをかけたスネアの音も、80年代への懐古趣味を超えたマッシブさで体に迫ってくる。そして、マッシブなレトロというのは、まさに『Discovery』以降の Daft Punk のスタイルそのものだった。
『After Hours』において、エイベル・テスファイは二つの言葉を繰り返している。"This house is not a home"、そして "Together we are so alone"。ホームを求めて手に入れた家に安らぐ居場所はなく、アローンを恐れて出会ったパートナーとの間には孤独しかない。スターダムにいながら惨めで荒れ果てた状態にいることを、テスファイはソプラノヴォイスで歌い続ける。その、荒廃を癒す場所がないという感覚を大勢の他者に伝えるための媒介が、Daft Punk 由来のマッシブなレトロだったのだ。だからこそ、『After Hours』、そしてその次の『Dawn FM』でも、クレジットされていない Daft Punk のニュアンスが嗅ぎ取れる。The Weeknd がホームを失ってアローンなまま彷徨うフィーリングに囚われ続ける限り、そのスタイルは変わらない。
Pusha T のステージネームで知られる Terrence Thornton(テレンス・ソーントン、1977年5月13日生まれ)は、バージニア州バージニアビーチ出身のラッパー。カニエ・ウエストのレーベル G.O.O.D. Music の社長を務める。
本作 DAYTONA は2015年の King Push - Darkness Before Dawn: The Prelude に続く Pusha T の3枚目のスタジオ・アルバム。2018年5月にリリースされた。この作品は同時に、カニエ・ウエストがプロデュースした5連作のアルバム・シリーズの第1作目でもある。この後にはカニエの Ye、カニエ & キッド・クディ KIDS SEE GHOSTS、ナズ NASIR、テヤナ・テイラー K.T.S.E. が続いた。
上記の5連作はカニエのポートフォリオにおいても存在感のある一角を占めている。そのうち本作を最も高く評価したメディアも多い。DAYTONA には聞き逃しようのないカニエの刻印があり、サンプリング・ミュージックの神髄を見せる技芸がある。
アルバムは Pusha T の作品としても最高峰のものとなった。ラッパーの言によるとアルバムタイトルはお気に入りの時計 Rolex Daytona に由来し "時間の贅沢" を表している。また Pusha は自分の音楽はいつもリアルな場所からやって来ると語り、本作は "high taste level, luxury, drug raps fans" のためのものだと言明した。
7曲21分の本作における Pusha T のラップは華やかでありながら、硬質で、集中力に満ちている。
Inc は LA 出身のデュオ、アンドリュー&ダニエル・エイジド兄弟のレコーディング名義。2013年にデビューアルバムとして本作 No World をリリースした。
飽くまでテクスチャーを重んじ、思慮深く構成されたこのアルバムは、古典的な R&B を基礎としながらも目覚ましい新しさと洗練を感じさせる。清廉な水の流れのように全編を貫くアンドリューのウィスパー・ヴォーカル、多層的なコーラス、ポスト・ダブステップ的なパーカッションと、そこに絡みながら深く動くダニエルのベースといった要素が巧みに織り上げられ、正統的かつ他に似る者のない完成された音像を実現している。
Inc の音楽は心地よく閉じられた空間のイメージを喚起する。陽光と冷ややかな空気を湛える、石灰塗りの白い部屋の印象だ。そこでは全てが過不足なく完結している。水の流れは淀むことも、穢れることもなく回路を巡り続ける。空間は静けさと集中力に満ちていて、リスナーはいつでも、必要なときにその部屋を訪れることができる。
フライング・ロータスとして知られるスティーヴン・エリソンは、サンダーキャット、カマシ・ワシントンらを擁するレーベル Brainfeeder
の代表であり、ゼロ年代から10年代前半にかけて形成されたLAビート・シーンの牽引者。彼自身の敬愛するJディラが死去した2006年に、アルバム 1983
でデビューした。
本作 You’re Dead! はアルバム5作目。LAに拠点を、あるいはルーツを持つジャズ・ミュージシャンを多数登用して制作され、3作目 Cosmogramma
以降フライローが研究を重ねてきたジャズ・サウンドがより明確に前景化した。クレジットにはサンダーキャット、カマシ・ワシントン、テイラー・マクファーリン、そしてハービー・ハンコックと、フライローのジャズ・サウンドを作るに相応しい錚々たるミュージシャンの名が並ぶ。ラッパーとしては西海岸ラップのOGである
Snoop Dogg に加えて、現行シーンの王者ケンドリック・ラマーが参加し、アルバムのハイライト Never Catch Me
を高揚感あるトラックに仕上げている。
しかし本作 You’re Dead!
はジャズ・アルバムではない。フライング・ロータスが試みているのは、飽くまでジャズという素材を用いて新しいビート・ミュージックを作り上げることだ。作家は歴史あるそのジャンルから即興性と脱構築性を呼び出し、LAビートという若いアートフォームに吹き入れた。ブラック・コミュニティの外部ではパンクロックやプログレッシブロックにも通じるその即興性・脱構築性は、反骨の人々にとって、社会的な抑圧に抗うための威力ある武器であり続けてきた。フライローがジャズに惹かれ、拘る理由の一つはそこにあるのではないだろうか。本作は全体として、デスクトップの上でよく計画され精緻に作り込まれているが、そうして実現されているのは、飽くまで即興性を感じさせる、荒々しく混沌とした音楽だ。
此岸の世界からの解放のイメージを纏うこの作品は、閉塞する精神に風穴を開け、抑圧的な状況に抗う力を与える。
Charli XCX は英国のシンガーソングライター。2008年、16歳で MySpace
にアップした音源で最初の注目を集め、音楽業界に参入した。2013年のファーストアルバム True Romance
は商業的には大きな成功を収めなかったが、批評的には賞賛された。その後に楽曲を提供した Icona Pop の I Love It、Iggy Azalea の
Fancy、さらに自身の名義でリリースした Boom Clap は世界的なヒットを記録した。この3つのスマッシュ・ヒットによって Charli
はポップ・シーンに華々しい存在感を示すことになったが、その後の活動でより鮮明になっていく通り、彼女の芸術性は単なるラジオ・フレンドリーな商品の枠組みに留まるものではなかった。
ポップ・パンクをフィーチャーした素晴らしいセカンドアルバム Sucker(2014)を発表した後、Charli はプロデューサー AG Cook
率いるロンドンの先鋭的なレーベル(ないしアーティスト集団)、PC Music との重要な共同作業を開始した。
PC Music と Charli
は、ヴィジョンとサウンドを初めから運命的に共有していたように見える。彼らのヴィジョンとは陳腐化しながらも終わることのない消費主義と、驚くほど素朴で甘ったるいロマンス、ポスト・インターネットの世界であり、その表現としてのサウンドは金属的で未来的なシンセサイザーとボーカル・エフェクト、東京カルチャーを連想させるキッチュなアレンジで耳を惹く。Charli
はPC Music という増幅機を、PC Music は Charli というヴォイスを得て、2017年にはこのコラボレーションから Number 1
Angel と Pop 2 という2枚のミックステープが生み出された。Charli XCX 名義のこの2枚のミックステープは、PC Music
がその生みの親でもあるジャンル、ハイパー・ポップの理想を実現しているといってもいいかもしれない。
セルフ・タイトルされた本作 Charli(2019)は、アルバムとしては Sucker(2014)に続く3作目となる。やはり PC Music
との共同のプロダクションで、ゲストにはLizzo、Haim、Sky Ferreira 他を迎えた(#6 Warm における Haim
の巧みなヴァースは特に賞賛に値する)。本作は前2作のミックステープで到達したハイパー・ポップという地平の、更にその先を目指した野心的な作品となっている。ある意味では完成され、洗練され、閉じられた
Sci-Fi 的ヴィジョンを内側から切り開き、作家はこのアルバムでより率直に生身の世界、また生身の自分自身に迫ろうとしているように見える。
そうした冒険的な試みゆえに、アルバムは必ずしもまとまりよく整えられてはいない。ハイパー・ポップ的ヴィジョンに代わる、統一された世界観のようなものはここにはまだ見当たらない。しかしこのいくらか粗い手触りは作家によるハードな試みの貴重な痕跡であり、アルバムの全体にリスナーの気持ちを駆り立てる生命力を賦与している。また個々の楽曲の品質は流石というべき水準であり、Charli
XCX が当代一のソングライターであることを思い出させる。人々の心を率直に打つポップネスにおいて妥協なく、同時に目覚ましく芸術的な Charli
の音楽は、機械的に量産される種類のポップ・ミュージックへのカウンターとしても鮮烈で、見事だ。
アレックス・ターナー率いる Arctic Monkeys は英国シェフィールド出身のロックバンド。1st の Whatever People Say I Am,
That's What I'm Not(2006)は完璧なデビュー作と評され、その瑞々しく、パンキッシュなガレージロック・リバイバルを拡大して作りきった
2ndの Favorite Worst
Nightmare(2007)もまた成功作だった。才能あるロック・ミュージシャンが往々にしてそうであるように、Arctic Monkeys
もまた、才気迸るままに録音した初期作ののち、どのような進路をとるべきかという難問に悩まされたであろうことは想像に難くない。彼らはそこで、単に初期2作を反復するのではなく、ギターロックの枠組みは堅持しながらも、その中で新たなスタイルを模索する旅に出ることを選んだ。
3作目 Humbug(2009)以降バンドは制作拠点をLAに移し、Queens Of The Stone Age の Josh Homme
をチームに迎えてストーナー・ロックに接近した。4作目 Suck It and
See(2011)では、コードと旋律に重きが置かれ、よりオーセンティックなソングライティングが試みられている。5作目となる本作
AM(2013)はそうした旅路の一旦の終着点であり、アレックス・ターナーが探求の末に辿り着いたギターロックの黄金律を示すアルバムとなった。乾いた砂漠に鳴るロック・ギターに、都市のブラック・ミュージックのテイストを巧みに織り合わせたこの作品は、6作目の
Tranquility Base Hotel and Casino(2018)、7作目の The
Car(2022)が既に発表された2023年現在も、彼らのキャリア・ハイと見做されている。
フロリダの少女、幼き日のアリアナ・グランデは R&B
シンガーになることを夢みていた。幼少期から歌唱力を磨き、NFLの試合で国歌斉唱の大役を担ったこともあった。のちに俳優としてレギュラー出演したティーン向けドラマで初のブレイクを経験するが、胸の内では飽くまでシンガー志望だった。ほどなくしてアリアナは自ら番組を降板し、アルバムの制作に取り掛かる。
マライア・キャリーのようなディーヴァ的なる存在に憧れたアリアナは、デビュー当初、磨き上げた歌唱力を活かすことを旨とし、そこにEDMなどメインストリームの要素を取り入れるかたちで楽曲を制作していた。しかしその後、アリアナの音楽性は
Rap / R&B シーンの潮流を鋭敏に捉えて大きく変化していくことになる。2019年発表の本作 thank u next
では、TR808を用いて作られた、サブビートを基部に据えて音数を減らしたビートに、朗々と歌い上げるのでない、逆に歌い下げるとでもいうべきスタイルのウィスパー・ヴォーカルが組み合わされる。これは明らかにドレイク以後の
R&B であり、さらにその前提として、James Blake 以後のポップ・ミュージックであると言えるだろう。
本作からのシングル thank u next
には、アーティスト自身が経験したパーソナルな出来事、それをいかに捉え、どのように行動するかということについての彼女のナラティヴ(語り)が込められている。ビルボード首位を獲得したこの作品で、アリアナは現行ポップシーンにおけるディーヴァとしての自らの存在を揺るぎないものにすると同時に、音楽性のみならず、社会的なアティチュードにおいても伝統的なディーヴァ像を更新してみせた。
Vampire Weekend は、コロンビア大学在学中に知り合ったメンバーで結成された4ピースバンド。2008年にアルバム Vampire Weekend でデビューした。彼らのシグネチャーとなったのはレゲエや西アフリカのスクースを取り込んだ、トロピカルなパンク・サウンドだった。それはマンハッタンの地元にあって、異国の地に理想郷を夢見る彼らの憧れそのもののようにも聴こえた。その後シンセ・ポップに踏み込んだ2010年の2ndアルバム Contra は記録的な成功を収め、バンドは世界中を巡るツアーに出ることになる。
3作目となる本作 Modern Vampires Of The City(タイトルはレゲエ・ミュージシャン Junior Reid の楽曲 One Blood からの引用)では、かつてのトロピカルなサウンドは鳴りをひそめ、クラシカルなピアノや荘厳なオルガンを軸にしたスローテンポな楽曲がアルバムの中心に置かれた。
プロダクションにはアイディアと技術が詰め込まれ、シンプルな演奏と録音に終始していたバンドの変化と発展を感じさせる。一例としてドラム・サウンドを取り上げてみれば、空間的な広がりのあるリリースが必要な場合には天井の高いスタジオでの録音にこだわり、あるいは #3 Step ではピッチシフトを巧みに用いてビートによって水中の印象を表現している。
本作のアルバム・カヴァーに使われているのは1966年のマンハッタンの写真だが、街はスモッグに覆われ、その風景はまるでディストピアの様に見える。バンドは世界を旅して、遂に理想郷を見なかった。かつて憧れた “ここではないどこか” は存在しない、世界は結局のところ、どこまで行ってもマンハッタンだった。アルバムを締め括る #12 Young Lion でエズラ・クーニグは歌う。You take your time, young lion. 作品の主題は、穏やかな肯定性を湛えた諦観だ。
元 JYP で、”愛の不時着” に挿入歌を提供している韓国の大衆ミュージシャンは、この本で触れている他のミュージシャンとは、少し毛色が違うと思われるかもしれない。
しかし、2020年も終わりを迎える頃にリリースされた本作は、ペク自身もPoclanosのインタビューで語っているように、St Vincent の Masseducation の続編のイメージで制作したアルバムというエピソードや、実現しなかったが King Krule の客演を意識して制作された楽曲があるなど、紛れもなく10年代の欧米ポップシーンの地続きにある。むしろその文脈を東洋的な視点をもって拡張させたオリジナルと言って良いだろう。
具体的には、本人もミュージシャンとしてのアイデンティティに影響を受けていることを公言しているが、Yoo Jae-Ha や、Light and Salt といったレイト80sの韓国歌謡曲(シティポップ)のテイストを強く感じる。しかし、それを近ごろのノスタルジー消費とは違った形で、現代的で洗練されたメロディに昇華させ、更にハウスや2ステップといったダンスミュージックのエッセンスも含むエレクトロポップスに仕上げている。どの楽曲も、耳馴染みの良いポップネスは担保されているものの、同時にオリジナリティあるアレンジや出音が内在されており、ペクの強い探究心を受け取れる。
ペクは ”バラードの女王” として、ファンやシーン、或いは産業からも、”いつものそれ” を期待するプレッシャーを背負わされてきたはずだ。しかしこのアルバムは、それらを意図的に忌避することで、自身のオリジナリティに向き合い、自由に制作することに成功した。tellusboutyorself を再生すると、他のどのアルバムよりも、創作という行為が本来備えている悦びを感じることが出来るだろう。
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KIDS SEE GHOSTS はカニエ・ウエストとキッド・カディによるラップ・プロジェクト。2018年に同名義で本作をリリースした。
二人の相性はとても良い。カニエの強烈なエゴはキッド・カディのメランコリックな歌声に包まれて、優美な陰影と繊細な表情を得る。彼らのあいだには精神的な結びつきがあるように見える。二人は共に精神疾患の経験を公表している。
本作は全7曲23分台の比較的小さなアルバムで、内容的にも大掛かりな建てつけの作品ではない。しかし品質は高く、音楽や芸術に関心のあるリスナーにとっては優れて興味深い主題を扱っている。
二人の子供が見ているのは、直接に救いをもたらす God でも、破滅に導く Demons でもない。彼らは幽霊を見る。それは日常とは異なる位相の現実に触れて音楽的な霊感を得ることの比喩だ。
このレコードに神や悪魔の激情は不在している。その代わりにリスナーは耳を澄ませて、幽霊と戯れる子供たちの、生々しい創造の息づかいを聞く。
本作は、The xx やアデルを手がけるロデイド・マクドナルドによってプロデュースされた、キング・クルールことアーチー・マーシャルが19歳のときに制作したキング・クルール名義でのデビュー作である(2010年に Zoo Kid 名義でデビューEPをリリースしてシーンを賑わす)。マーシャルはサウスロンドンを拠点に活動する、幾らか天然パーマでカールした赤毛の不良(と言って良いだろう)だ。
本作は彼の声と、若さを主題とした作品だ。低く、荒々しく、血が凍るような声を際立たせるために、キックやベースなど低音が最小限に抑えられたサウンドはー楽曲によってはボーカルとギターのみの編成もー、ペッカムのあたりの崩れ、歪んだ赤煉瓦のプロジェクトや、不良たちが屯するストリートを想起させる。セカンドアルバム以降のマーシャルは、よりダークでジャズや打ち込み音楽に傾倒していくことになるが、本作では若さ故の勢いのある楽曲も魅力的だ。オープニングの Easy Easy は、ドラムス・ベースこそ入っていないが、パワーコード(むしろ単音弾き)で作られたパンクソングで、ライブ編成では大団円を迎えるマーシャルの代表曲だ。”A Lizard State”や、”Ocean Bed”、”Out Getting Ribs”のアウトロでは乾いたカッティングギターが瑞々しい。
ズー・キッドと比較しても、音楽商品としての完成度を高める過程で絞ったピントが、彼の思考するものとズレている箇所もある様に思えるが、声という彼にしかないオリジナリティ、そして若さが故の粗野で且つ、後先を考えない直線的な力を感じられる作品だ。
Ballads1 は神戸出身の RnB シンガー Joji のデビューアルバム。2018年11月にリリースされ、ビルボード RnB・Hiphop チャートで一位を獲得した。
このレコードで展開される音楽はローファイ・インディーロックのテクスチャーで語られるトラップ RnB といったものだ。飽くまでブラック・ミュージックだが、そこに苦味や煙たさはなく、ローファイな音像の中で繊細なヴォーカルやキャッチーなギター / ピアノ・リフが耳を惹く。単純なループ・ビートではない、JPOP 的な楽曲構成と併せて、こうした要素はあるいはアジア的なるものと呼んでもいいかもしれない。
Joji の音楽は初期から現在に至るキャリアを通じて、彼自身の社会に対するルサンチマン(ressentiment)の発露からその昇華までを示す。Ballads1 の一曲目、Attention では、楽曲のフックに強力な bass boost が施されている。美しい旋律に音割れをもたらすそのエフェクトは、世界の瑞々しさに堪えかねる作家の自意識のノイズを思わせる。このレコードは陽の明るさと頬に降りつける雨を同時に感じさせ、春の嵐のように聴こえる。
ジョン・ホプキンスはエレクトロニカ、アンビエント及びアシッドテクノに立脚する鍵盤奏者であり、音響技術者だ。過去にはブライアン・イーノやコールドプレイとの仕事で知られるが、Immunity は彼自身の名義での4枚目のアルバムとなる。
この作品では、音楽を構成する個々の要素はどれも繊細かつ洗練されていて、単一の要素が極端に強調されることはない。細い糸をよりあわせて強靭なロープを作るように、単純なビートやピアノリフ、その他の様々な要素が絡み合って骨太なグルーヴになる。
あるいはそれは、優れて複雑な生体の免疫系にも似ているかもしれない。音楽は時に、ある種の病原体から私たちの魂を守る免疫システムとなりうる。
チャイルディッシュ・ガンビーノことドナルド・グローヴァーのアルバム第二作。一作目の Camp、三作目の Awaken, My Love!
と同じく、ルドウィグ・ゴランソンがプロデューサーを務めた。ゴランソンは「フロートベール駅で」「ブラックパンサー」「TENET」他を手がけた映画音楽作家としても著名だ。本作は優れたラップ・アルバムであるのみならず、ゴランソンの劇伴作家的な感性と手腕が、後にドラマシリーズ
Atlanta においても遺憾なく発揮されるグローヴァーのストーリーテリングの才覚と特別にうまく噛み合った、一篇の物語であるようにも聴こえる。
本作の歌詞の主人公 the boy
には、グローヴァー自身の姿が投射される。アルバム制作時のグローヴァーは、ミュージシャンとして、俳優として、脚本家として、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで成功の階段を駆け上りつつあった。しかし一方で彼は、その成功にあやかろうと近づいてくる不誠実な人々や、ドラッグとアルコール浸しのパーティーに辟易し、また重大な責任を伴うライフステージの変化への不安を感じ続けていた。本作は多彩な音楽的レファレンスを持つ、飽くまでラジオ・フレンドリーなポップアルバムに仕立てられているが、アルバムに通底する浮遊感のあるシンセ・サウンドは、一見華やかな成功者の世界にありながら、the
boy の胸中にいつまでも晴れぬ靄を思わせる。
Daft Punk は仮面をつけることでポップ・ミュージック史のハブ/中継地となった。
二人があの重たそうなギラギラのヘルメットをかぶり始めたのは1999年のことだ。1993年にパリで結成され、1997年にファーストアルバム『Homework』をリリースするまでは、Daft
Punk が素顔で DJ
する姿が写真で残っている。ハウスのリズムにヒップホップの音像を持ち込む彼らの音時間は、きめ細かい音響のクラブミュージックとして支持を得ていた。そうした強度あるサウンドに対して、彼らのヴィジュアルイメージはそっけないものだった。
1999年のロボット化は、当然大きな変化だった。当時は、ロックスターが仮面をつけるモードが進行していた。同年デビューのスリップノットはバンド全員がおどろおどろしいマスクをかぶることで話題を呼んでいたし、英国髄一の若手スターだったブラーのデーモン・アルバーンはアニメーション上の架空バンドとしてゴリラズを始動させる直前だ。スターはメディアに晒される自身の姿と折り合いをつけるために、時に仮面を利用する。デヴィッド・ボウイが「ジギースターダスト」というペルソナを確立した1972年以来、社会構造を批評するため、そしてスターへの抑圧から生身の人間を隠すため、仮面は現れた。しかし、ダフトパンクのヘルメットの特異性は、「隠す」という機能を欠いていたところに存ずる。彼らが基盤を置くクラブミュージックが、そもそも匿名性の文化だからだ。彼らはロボットとして現れることで、クラブカルチャーとスターシステムの間、匿名性と記名性の間に立つことができた。
2013年の『Random Access Memories』は、匿名と記名を行き来する Daft Punk
という存在の集大成だ。ディスコ/ハウス/ファンク/インディなどを無造作に、かつきめ細かく繋いでいく。ディスコの巨匠ジョルジオ・モロダーと、R&B /
ヒップホップの顔役ファレル・ウィリアムズと、US インディの雄パンダ・ベアーを一堂に集められたのは、顔を持たないサウンドの肌理と、顔を持つ音楽史を同居させる力を
Daft Punk が有していたからだ。2014年グラミー賞での「Get
Lucky」のパフォーマンス。ファレルの横にナイル・ロジャースとスティーヴィー・ワンダーが並び、後ろに Daft Punk
の二人が立つ。それは、100年に及ぶポップ・ミュージックの歴史が一つの場所に合流する特別な瞬間だった。Daft Punk
は、奇跡の瞬間を可能にする、特異な中継地点だった。
ジャスティン・ティンバーレイクについて語るとき、私たちはしばしば彼をかのマイケル・ジャクソンと関連づけようとする。両者に共通するのは、古くはエルヴィス・プレスリーに遡るディオニューソス(ギリシア神話に登場する豊穣と葡萄酒の神)的な陶酔型エンターテイナーの系譜に連なる点だといえるだろう。では相違点は?酷薄な言い方をするようだが、端的に言って、最も明らかな相違は各々の才能の規模にあるのではないだろうか。
マイケル・ジャクソンがそこにいて、軽くステップを踏みさえすれば、フロアには忽ちどこか人ならぬ、神的な時空が現出する。人々は踊るのをやめて立ち尽くし、彼の圧倒的なパフォーマンスにただ見入ってしまうことだろう。時に宗教的でさえあるそのカリズマこそが、MJ の天分であり呪いだった。一方、ティンバーレイクはより現実的な存在だ。ディオニューソス的でありながらも、彼は人間であることをやめない。そして両者の間に横たわる差異、つまり減じられた神性を埋めるものにこそ、ジャンティン・ティンバーレイクの本質は宿る。
減じられた神性を埋めるのは、洗練された俗っぽさ、都会の喧騒であり、着飾った男女の集うパーティー・タイムの興奮だ。私たちは精緻に作り込まれたポップ・サウンドの向こうに、遠い交通のうねりや、グラスや食器の触れ合う音を聴きとる。ティンバーレイクは祝福され、訓練された音楽的実力を遺憾なく発揮して、アルバムの中に蠱惑的な夜を再現してみせる。惚れ惚れするような、しかし不完全な神性と、それを補完するどうしようもなく魅力的な俗性。これらが共存する傑作 20 / 20 Experience は、他のどのレコードよりも鮮やかに、私たちを夜の高揚へと誘う。
The King Of Limbs は2011年に発表されたレディオヘッドの8枚目のスタジオ・アルバム。8曲入り37分台の小規模な作品だが、動的な前半と静的な後半から成り、良く構成されている。前半4曲はパーカッシブで密度があり、ドラマーのフィル・セルウェイによる電気的打楽器を用いた不規則なリズムが強調される。後半4曲ではリズムは後退し、より静謐で開放的なヴィジョンが示される。リードシングルに選ばれたのは #5 Lotus Flower だが、アルバムの焦点は #6 Codex と #7 Give Up The Ghost にある。作品は全体として、この種の電子音楽における最終的な完成をみせる音楽史的な傑作となった。
The King Of Limbs はそれ自体優れた芸術作品だが、まるでそのタイトルが想起させる、無数の枝を伸ばす威厳ある大木のように、同時に様々な二次的創造の原案としても機能している。二次創造の代表的なものとして、Jamie XX らポップス界を牽引するビートメイカーからベルリン・テクノの異才 Objkt までが参加した、地域やジャンルを越境するリミックスアルバム TKOL RMX 1234567 や、バンド初のツインドラムセットを用い、生演奏においてこそ The King Of Limbs は真に受肉するのだと思わせるほどの素晴らしいパフォーマンスを見せた Live From The Basement などがある。